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藤原宣孝
紫式部の夫は、どんな男性?
紫式部の夫、藤原宣孝は世渡り上手。
役人として有能な人物でしたので、様々な国の国守に任命され財を得ます。
ドラマでも紫式部と道長の関係を自分の出世に利用していました。
実際には、紫式部と道長の接点は宣孝の死後ですので架空のことですが、彼の如才なさがよく現れていました。
20歳も年上の宣孝は、式部の知性と文学的才能に惹かれました。
恋多き男ゆえ、大きな喧嘩も度々ありました。
性格は明朗で豪放。
彼独特の美学があり、時に破天荒な行動で世間の注目を浴びたそうです。
『枕草子』には、宣孝が「金峯山寺」※に参詣した様子が書かれています。
※ 奈良吉野にあり、本尊は蔵王権現。参詣すれば願いが叶うと信じられていた
参詣する時は、どんなに偉い方でも粗末な身なりをするものですが、宣孝は濃い紫の指貫に白い襖、山吹色の派手な色の衣を着て参詣しました。
「清潔な服を着て参詣しているのに、何の悪いことがありましょうか。
まさか権現様は『粗末な身なりで参詣せよ』とは、おっしゃるまい」と言い放ったため、人々は呆れかえりました。
が、3ヶ月後、なんと筑前の守に任命されたのです。
宣孝の言った通りになったと話題になりました。
紫式部の一生の中で、結婚し娘を産んだ頃がいちばん幸せだったと言われています。
残念ながら宣孝の病死により、わずか3年で結婚生活は終わってしまいました。
この哀しみを癒すため、式部は物語りを書き始め、やがては壮大な『源氏物語』へと繋がっていくのです。
源氏物語の再現
紫式部集に、こんな歌が載っています。
もう手紙も寄こさないと おっしゃるのなら、絶交してしまうのもいいでしょう
どうして、ご立腹なさる貴方に遠慮など致しましょうか
言ひ絶えば さこそは絶えめ なにかその みはらの池を つつみしもせむ
これは、紫式部が宣孝へ送った絶交を意味する歌です。
喧嘩の発端は、式部の手紙を宣孝が他人に見せてしまったことでした。
今まで渡した手紙を全て返してと、式部は怒ります。
「文散らしけり」と聞きて、「ありし文ども、とり集めておこせずは、返り事書かじ」と、言葉にてのみ言ひやりければ、
平安時代、上手な和歌を詠むということはその人の価値を示すこと。
宣孝は才気溢れる妻を自慢したかったのですが、それが式部の癪に触ってしまいます。
彼女にとってみたら、自分のラブレターを他人に見られるのと同じことでしたので。
ドラマでも同じ理由で“まひろ”が ご立腹。
彼女は灰を宣孝に投げつけます。
事実では、宣孝が早々に降参の和歌を紫式部に送り、仲直りをした様ですので、この様な暴挙はなかったことでしょう。
この灰を投げつける場面は、『源氏物語』真木柱の巻に登場します。
実直さだけが取り柄の“髭黒大将”は、その名の通り髭が濃く色黒の中年男性。
風流なところもなく、容姿も美しくありません。
ところが、強引に若く美しい“玉鬘”と結婚してしまいます。
“髭黒大将”には長年連れ添った北の方(正妻)がいました。
北の方は心の病にかかっていて、時々正気を失くした行動に出るのです。
“髭黒大将”が“玉鬘”のもとへ通おうとした時、北の方は香炉の熱い灰を“髭黒大将”に浴びせてしまうのでした。
平安時代の女性は いつも家の中、美しくも重い十二単衣を着て、「通い婚」の夫の訪れを大人しく待っている…
という印象がありますが、実際には灰を浴びせるのは序の口、夫の他の女性の家を家臣に壊させたりと、なかなか勇ましい女性もおりました。
松皮菱文様
ドラマ「光る君へ」での 同じ文様
ドラマの中で、藤原宣孝が着ていた直衣(普段着)の文様は「浮線菊」、地紋は「松皮菱」です。
道長の次兄、通兼も同じ文様でした。
道長に復讐を企む藤原伊周(中宮 定子の長兄)も同じ文様です。
浮線菊文様とは?
円を4分割して それぞれの円周に、菊を配置した図柄。
代表的な有職文様※です。
※ 平安時代からの宮廷や公家が用いた伝統文様
浮線文様について、詳しくはこちらをご覧ください。
松皮菱文様とは?
松皮菱文様
松の樹皮を図案化し、大小の菱形を重ねた文様です。
松は「常盤の松」とも呼ばれ、葉が四季を通して緑色であることから、松皮菱文様も不老長寿・永遠の若さの象徴となっています。
「松皮菱」と似た文様に「三階菱」があります。
松皮菱は三つ重ねた菱形の真ん中が大きい図案。
三階菱は菱形が下にいくにつれ、だんだんと大きくなる図案です。
臥(ふせ)蝶丸文様 〜〜「光る君へ」安倍晴明の衣装より
安倍晴明は奇しく強大な力を持つ占い師だったのでしょうか? 平安時代の陰陽師の役割とは? 「光る君へ」での晴明の衣装の文様は「臥蝶丸文様」です。
浮線菊文様 ぬり絵に挑戦
ぬり絵に挑戦!
大河ドラマ「光る君へ」藤原宣孝、藤原道兼、藤原伊周の衣装の文様です。