毘沙門亀甲文様 〜〜「光る君へ」敦康親王の衣装より

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敦康親王

待ち望まれた王子

平安時代、天皇の重要な役目の一つは、後継の男の子を作ることでした。
一条天皇の若い頃、中宮の定子と他に3人の妃がいました。
しかし、定子も他の妃たちも なかなか子が産まれません。

定子の父が亡くなり、兄たちも事件を起こして左遷させん、定子は失望のあまり出家をしてしまいます。
しかし、一条天皇と定子の愛は冷めず、皮肉にも出家をしてからは次々と御子を授かり、“敦康親王あつやすしんのう”が生まれました。
敦康あつやす親王が生まれた日、藤原道長の娘“彰子しょうし”が一条天皇に入内じゅだいしました。
敦康親王が2歳のとき、母の定子は亡くなり、後見者もいない・母もいない、天皇の長男でありながら立場の弱い皇子となってしまいました。

一条天皇は、愛した女性の忘形見の敦康親王を とても可愛がりました。
道長の娘“彰子しょうし”は、なかなか子供に恵まれず、道長は3歳の敦康親王を彰子の養子として育てさせます。
いわば、政権を確固たるものにするための保険でした。
敦康親王は彰子にいつくしんで育てられ、幸せな子ども時代を過ごしました。

しかし、彰子が2人の皇子を産んだことから事態が急変します。
彰子は敦康親王も自分の子たちと同様に大切にしましたが、道長にとっては邪魔じゃまな存在となり、敦康親王への態度を一変させます。

運命が変わり始める

敦康親王が13歳の時、一条天皇が重い病にかかり三条天皇に譲位じょういをします。
その際に東宮とうぐう(三条天皇の次の天皇となる皇子)を決めなくては、なりません。
一条天皇は、愛する女性との子であり、また慣例かんれいから第一皇子の敦康親王を東宮に立てたいと願っていました。
しかし、すでに46歳の道長は彰子の皇子みこを東宮にと望みます。
病で気弱になっている一条天皇は、後見者のいない敦康親王の立場をおもんばかり、道長の孫を次期東宮にしました。
天皇への道は閉ざされた敦康親王ですが、経済的には困らないよう配慮されました。

「光る君へ」第40話で敦康親王が語っていました。
「父上のお姿を見ておったら、帝というお立場の辛さがよく分かった。穏やかに生きていくのも悪くなかろう」

幸せへの道

敦康親王は、才能あふれる青年でした。
当代きっての知識人“藤原公任きんとう”に「とても才智に長けていて、誠に感歎する」と言わせ、『大鏡おおかがみ』にも「才能あふれて賢く、また人柄も優れている」と書かれています。

敦康親王は宮中を出てからは、漢詩の会や和歌の会を開催するなど、文化に親しみ楽しみ暮らしました。
敦康親王は、皇族の祇子げんし女王と結婚、女の子に恵まれ、家族を大切にしていました。
しかし、体の弱さは父帝に似たのでしょうか。
20歳の時に病にかかり、突然亡くなってしまいます。

敦康親王の娘は藤原頼道よりみち(道長の長男)の養女となり、後に入内じゅだいし中宮となったのです。

毘沙門亀甲びしゃもんきっこう稲妻いなづま文様

敦康親王が子どもの時に着ていた衣装は「稲妻いなづま文様」の地紋と「毘沙門天びしゃもんてん亀甲きっこう文様」でした。
毘沙門天亀甲びしゃもんてんきっこう文様
毘沙門天びしゃもんてんは仏教では勝利をもたらす戦いの神様、日本では財宝や福をもたらす七福神しちふくじんの1柱です。

戦いの神様らしく、毘沙門天の像は甲冑かっちゅうをつけ、甲冑には独特の亀甲文様が刻まれています。
この文様を“毘沙門天亀甲”と呼ぶようになりました。
亀甲きっこう文様とは、亀の甲羅がモチーフの六角形の文様です。
長生きの亀にちなみ、長寿・繁栄の意味があります。

その亀甲を3つ組み合わせたのが「毘沙門天亀甲びしゃもんてんきっこう文様」。
亀甲文様の長寿・繁栄に加え、毘沙門天に由来して福富・守護の意味も加わりました。
稲妻いなづま文様
稲妻いなづまを図案化した文様で、別名「かみなり文様」とも呼ばれています。
「稲妻」の由来は、雷が多いと豊作になると云われ、雷の光が稲に子(実)を宿す…つまり「雷」は「稲の夫」と考えられたからです。

稲妻文様には五穀豊穣ごこくほうじょうの意味があります。
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