桐文様 〜〜「光る君へ」藤原頼通の衣装より

目次

藤原頼通よりみち

父“道長” と 息子“頼通”との違い

藤原頼通よりみちは道長と倫子ともこの長男です。
親子で摂関政治の全盛期を築きました。
道長には6人の息子がいましたが、頼通は「道長の愛子(最愛の息子のこと)」と言われるほど、特別な存在でした。
若干25歳の頼通に摂政の座を譲ります。

しかし、2人は生き方も考え方も違っていました。
 道 長頼 通
出世若い時の出世は遅く、なかなか要職に就けなかったが、恵まれた運・本人の力量・高貴で豊かな本妻のおかげで摂政となる父のおかげで出世は早く15歳で公卿、25歳で摂政となる
摂政の期間わずか1年→道長の家系が摂政を世襲することを世間に示すため、早々に息子に摂政の座を譲る
しかし、頼通の背後で実権を握り続けた
50年
道長に支えられ、道長亡き後は、姉の彰子太皇太后あきこたいこうたいごうに支えられる
恐妻家
「男の出世は妻の家柄しだい」という考え
妻2人と妾が大勢いた
愛妻家
すでに本妻がいるのに、天皇から皇女との縁談を提案されてしまう
本妻の座を譲らなくてはいけない妻の気持ちを思い涙を流す
その後、病に寝込み、縁談は取りやめとなる
本妻との間に子がいないため、後に3人の妾
性格実行力があるが、時に強引な場合も
よく人に感謝の気持ちを伝える
穏やかな性格だが、それゆえ父ほどの実行力がない
建立浄妙寺 法成寺 ともに現存せず宇治平等院…世界遺産

頼通の大きな功績

頼通の大きな功績の一つは、宇治の平等院びょうどういんを創建した事です。
「光る君へ」第42回で道長は病気となり、宇治の別邸で療養していました。
頼通は、その宇治の別荘を寺院として改修しました。
当時、世の中は、反乱や疫病など混乱していたため、国の平安を祈祷することが目的でした。
平等院に今も残る貴重な建物や彫刻は、世界遺産にも指定され、平安時代の文化に触れることができます。

特に鳳凰堂は、極楽浄土の宮殿をモデルにしたとされ、大変美しい建物です。

『源氏物語』の再現

道長が絶頂を極めた日…
娘の“威子たけこ”“が中宮に立后りつごうしました。
彰子あきこ”が太皇太后たいこうたいごう、“妍子きよこ”が皇太后こうたいごう、“威子たけこ”が中宮。
一家に三后さんごうという歴史上初めてのほまれの日でした。
3人の后がそろい、「本宮の儀」という お祝いの宴会が開かれました。
その時に道長が詠んだのが、あの有名な和歌。
この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたる事も 無しと思へば
ドラマでは「本宮の儀」で、頼通と弟の教通が「青海波せいかいは」を舞いました。
夜、照らされる灯りの中、2人が手に持つ紅葉と赤い衣装が映えて、幻想的な映像でした。

「青海波」は2人の踊り手が同時に袖を振り、寄せては返す波を表します。
『源氏物語』の「紅葉賀」の巻にも同様のシーンがあります。
光源氏と義兄の“頭中将”は、帝や中宮の御前で「青海波」を舞いました。
光源氏の顔立ち、足拍子など美しく、この世のものとは思われないご様子に、観ている人々は感涙したのでした。

もののおもしろきほどに、同じ舞の足踏面持、世に見えぬ様なり

きり文様

頼通が舞った「青海波せいかいは」の赤い衣装には、様々な文様が描かれて とても華やかな衣装でした。
肩の部分の文様は「桐文様」です。
桐文様
天皇と許された者のみが使える文様に「桐竹鳳凰麒麟きりたけほうおうきりん」があります。
鳳凰ほうおうが桐の木にむという伝説から、「桐文様」も高貴な文様とされていました。

豊臣秀吉が家紋としたことでも有名です。
よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
目次