雲立涌文様 〜〜「光る君へ」脩子内親王の衣装より

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脩子ながこ内親王は どんな皇女 ?

父帝の愛に守られた子ども時代

脩子ながこ内親王は、一条天皇と中宮“定子”の長女です。
6歳の時に母が亡くなり、祖父母もすでに他界、伯父たちは事件を起こし失脚していました。

後見人がいないとは言え、一条天皇にとって初めての子。
帝は彼女を宮中で育て、溺愛できあいしました。
(「光る君へ」のドラマ上では、清少納言が育てたことになっています)
裳着もぎ(平安時代の女性の成人式)の時には、父帝は彼女に高い位と財産を与えました。

誇り高き 寂しい皇女

脩子内親王は、妹“媄子びし内親王”、伯父“藤原伊周これちか”、そして、父“一条天皇”と次々に死別してしまいます。
まだ16歳でした。
藤原道長や中宮“彰子”が後見こうけんを申し出ます。
けれど、誇り高き内親王。
彼女は、母“定子”に冷たかった道長一族の申し出は断り、もう1人の伯父、藤原隆家たかいえの援助を受けます。
父帝のおかげで、経済的には豊かでした。
23歳の時には、弟の敦康あつやす親王が亡くなってしまい、孤独の身となりました。
彼女は一生独身を通し、29歳の若さで出家しました。

出家後でも、母定子を思わせる文化サロン

若くして出家をした脩子内親王でしたが、お寺にこもることなく、母“定子”のような華やかな文化サロンをもよおしていました。
彼女はそう(現在の琴)をとても上手に演奏しましたので、音楽の才能ある人たちが集まり、演奏会を開いていたそうです。
また、つかえていた女房の中には、“相模さがみ”や“加賀左衛門かがのさえもん”など勅撰集に選ばれるほどの和歌の名人がいたため、歌合うたあわせも開催していました。

脩子内親王は美しい字を書いたことで有名です。
多くの文学作品を集め、書き写していました。
定子に仕えていた清少納言の『枕草子』を、後の世に伝える活躍もしたと伝えられています。
文化を愛し、貢献した、穏やかな後世でした。
写真 NHK「英雄たちの選択」より

亡くなってからも尊敬されていた皇女

脩子内親王は魅力ある女性でした。
・一条帝に愛された皇女だったこと
・後一条天皇と後朱雀すざく天皇の異母姉だったこと
・養女(藤原延子)が後朱雀天皇に入内したこと
これらのことから、公卿くぎょうたちは脩子内親王に丁重に接したと言われています。

彼女は54歳で永眠。
葬儀の日は2月7日、釈迦しゃか入滅にゅうめつと同じ日だったので、人々は「きっと成仏なさるだろう」とたたえたそうです。

雲立涌くもたてわく文様

「光る君へ」のドラマのセットは、膨大な手間とお金と時間をかけているそうです。

彰子が入内する時に、道長が贈った屏風びょうぶをドラマ上で再現していました。
表側は日本画家に依頼したそうです。
美術スタッフのこぢわりは、屏風の裏側までも。

源氏物語絵巻、宿木やどりぎ(二)の絵に描かれている屏風の裏側の図案を模写したのです。

写真 「あさイチ」より

ドラマの中、屏風の裏側が映ったのは たったの2回。
どちらも、ほんの一瞬のことでした。

屏風の裏側の図案は「雲立涌くもたてわく文様」。

脩子内親王の衣装の地紋にも、その特徴ある文様が再現されていました。

雲立涌文様
『源氏物語絵巻』で有名になった図案です。

立涌たてわく」とは、2つの波状の形を向かい合わせにし、縦に伸びていく文様です。
広い空間と狭い空間ができ、広い部分に雲を描いています。

この文様の雲は、雲というより植物の葉のようです。
それは、この文様の元祖が なんと古代エジブト発祥はっしょうだから。

「パルメット文様」と呼ばれ、椰子やしの葉が扇状に広がっているモチーフを横に連続した文様です。
やがて、シルクロードを通り中国や朝鮮に渡ると、椰子やしの葉は忍冬すいかずらの葉となり「忍冬唐草すいかずらからくさ文様」になりました。
これが「雲立涌文様」の原型と考えられています。
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