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中宮 彰子
彰子の性格は「謎」?
一条天皇の中宮 彰子は、藤原道長の長女。
道長の期待を背負い、わずか11歳で天皇の妃となります。
無表情で無口。
ドラマ「光る君へ」では、彰子の性格は「謎」と言われていました。
実際、彰子に仕えた紫式部は この様に表しています。
何一つ不足なところもなく、全てに行き届いて奥ゆかしく いらっしゃるのですが、あまりに内気なお心
宮の御心あかぬところなく、らうらうしく心にくくおはしますものを、あまりものづつみせさせたまへる御心 『紫式部日記』「斎宮と中宮御所」より
彰子は父の操り人形?
道長の思惑により彰子は、定子の忘形見の皇子“敦康親王”の養母となります。
彰子は敦康親王に愛情を注ぎ、育てました。
後に、この敦康親王を巡り、彰子と道長の関係に亀裂が入る出来事が起こってしまいます。
それをきっかけに、彰子は自分の意思と正義を持って政治に介入、貴族たちから賢后と崇められるまでに変貌を遂げのです。
詳しくは、また改めて記事を書きます。
『源氏物語』のモデル
主人公、光源氏は3歳で母を失いました。
父である帝は、光源氏の母“桐壺”に生き写しの女性“藤壺”を妃に迎えます。
幼い光源氏は“藤壺”に母の面影を感じ、藤壺もまた光源氏を可愛がるのでした。
やがて光源氏は藤壺に恋心を抱くようになります。
帝の住まいを“内裏”と呼びます。
内裏には、政務が行われる“紫宸殿”・日常生活が行われる“清涼殿”・皇妃や女官が住む“後宮”がありました。
後宮には10以上の建物があり、坪庭に植えている樹木の名前から「桐壺」「藤壺」など呼び名がつきました。
光源氏が恋した義母“藤壺”と同じく、彰子も藤壺殿に住んでいました。
先妃(定子)の遺児(敦康親王)を可愛がり育てたことから、彰子は『源氏物語』の“藤壺”のモデルと考えられています。
撫子文様
彰子は、道長と正妻“倫子”との最初の子。
大切に可愛がられて育ちました。
ドラマの中で彰子が着ていた衣装は撫子文様です。
撫子文様がもつ意味は…。
撫子文様
奈良時代、万葉集の中で子どもを示す比喩として歌われてきた撫子。
『枕草子』には「草花の中で、一番趣きのある花は撫子」と書かれています。
可憐な花が「撫でる様に大切に育てた子のよう」と、「撫子」の名がついたそうです。
撫子文様には「可愛い」「笑顔」という意味があります。
一条帝が崩御した折、彰子が哀しみ詠んだ和歌が残っています。
幼い息子が、父が亡くなったことを まだ理解できずに、撫子の花を手に持っている
その姿を見ると涙が溢れてしまうことです。
見るままに 露ぞこぼるる おくれにし 心も知らぬ 撫子の花
「光る君へ」 同じ文様 探し
「光る君へ」で、“まひろ”は夫に死なれた後、藤原公任の妻、敏子が主催する「和歌を学ぶ会」の講師をしていました。
彰子と敏子の衣装が同じ文様です。
彰子の文様は中宮らしく豪華に金・銀・紫色。
敏子の文様は橙の一色です。
図柄は少し違いますが、同じ撫子文様として、“まひろ”と一条帝の女御“元子”が同じでした。
“元子”は天皇の孫で高貴な血筋ですが、不名誉な逸話が残されている可哀想な女性です。
定子が出家した後に、元子は一条帝に入内しました。
定子ほどではありませんが、帝の寵愛を受け懐妊します。
(ドラマでは、一条帝は定子以外の女性を愛しませんでしたが、事実は少し違います)
産月になっても、なかなか出産の兆候が見られないため、お寺で祈祷を受けました。
すると大量の水だけが出て、赤ちゃんは生まれてきません。
想像妊娠は恥ずかしいと、元子は宮中に戻りませんでした。
“まひろ”が“倫子”(道長の正妻)と出会ったのは、倫子の家で行われていた「和歌の勉強会」でした。
そこに集っていた貴族の娘の1人“茅子”の衣装も同じ撫子文様でした。
向蝶丸文様 〜〜「光る君へ」中宮 定子の衣装より
一条天皇の中宮 定子はとても魅力的な女性でした。美しさは父親譲り、賢さは母の教育の賜物。彼女は華やかな文化サロンを築きました。
「光る君へ」での定子の衣装は「向蝶丸文様」です。
撫子文様 ぬり絵に挑戦
ぬり絵に挑戦!
大河ドラマ「光る君へ」彰子の衣装の文様です。