鳳凰(ほうおう)文様 〜〜「光る君へ」源俊賢(としかた)の衣装より

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源俊賢みなもとのとしかた

源氏と平氏の始まり

武士の起こり、源氏と平氏。
そのルーツは平安時代にありました。
天皇であるみかどの大切な役目は皇子みこをたくさん作り、その血筋を絶やさぬこと。
帝には、多くの妃がいて多くの息子たちがいました。

次の帝になる“東宮とうぐう”以外の皇子は臣下しんかに降ります(臣籍降下)しんせきこうか
皇子には姓(苗字)がありませんが、臣下に下ると姓が必要となります。
皇子たちは、「みなもと」か「たいら」を名乗りました。
これが源氏、平氏の始まりです。
やがて、それぞれの末裔まつえいが武士として台頭していきました。

源俊賢、苦難の子供時代

俊賢としかたは、道長の妻 明子の兄です。
俊賢の父、源高明たかあきら醍醐だいご天皇の皇子ですが、臣下に下り左大臣。
『源氏物語』光源氏のモデルの1人と考えられています。

「光る君へ」第34回でも、俊賢が まひろ(紫式部)に語るシーンがありました。
「(光源氏の物語を読んで)父、高明を思い出した。父は素晴らしき人であったから」
藤原氏は勢力を伸ばすため、ライバルの高明を陰謀いんぼうにより、太宰府だざいふ(福岡)へ左遷させんさせてしまいます(安和あんなの変)。
藤原道長の父、兼家かねいえも陰謀の一役を買っていたという説があります。
高明は3年後に罪が許され都に戻りますが、もはや政治への力はなく隠棲いんせいしました。

当時、上流貴族の息子は高い位が与えられ、適齢になれば官僚として働く人ができました。
中流と下流貴族の息子は、官僚育成機関である「大学寮」に通い、国家試験に合格すれば位が授けられ官僚になれました。
天皇の孫である俊賢は上流貴族、本来なら すぐに官僚になれたのですが、えて高明は息子を大学寮だいがくりょうで学ばせます。
官僚は高い基礎学力があってこそ、力を発揮できるという考えからでした。

『源氏物語』でも光源氏は、息子の“夕霧”を大学寮で学ばせました。
「学力が無いまま苦労せず出世しても、後に後ろだてとなる人が亡くなり落ちぶれたとき、人々から見放されてしまう」
と光源氏は説いています。
そこから、源俊賢は“夕霧”のモデルと言われています。

父の無念を見て育った俊賢は、子供ながらに世渡りの術を身につけて大人になるのでした。

四納言しなごん」と呼ばれるまでに

一条帝の朝廷政治は後の世から「めでたき政治」…素晴らしい政治と称賛されました。
道長と共に帝を支えた4人、藤原公任きんとう、藤原斉信ただのぶ、藤原行成ゆきなり、そして源俊賢を「一条帝の四納言しなごん」と呼びます。
俊賢にとって、道長一族は父のかたき
ドラマでは俊賢の妹であり道長の妻“明子”が、義父“兼家”に呪詛じゅそを行うシーンがありました。※ 恨みのある人に災いが起こるよう神仏に祈ること

幼い頃から苦労をし、後ろ盾のない俊賢は、出世をするためには、藤原一族とは争わず、自らのスキルで勝負するしかないと悟ります。
ドラマでも「生きてゆくなら、力のある者には逆らわぬほうがよい」と明子をさとしていました。
この頃の朝廷政治で重要なことは、宮中で行われる様々な年中行事の儀式ぎしきを先例通りに行うことでした。
そのため儀式の手順に精通していることは、政治的に大きな力があることです。
俊賢の父高明は、儀式の手順を記録した『西宮記さいきゅうき』を書き残していました。
俊賢は儀式を熟知、大学寮で学んだことも助けとなり、道長から信頼を置かれる存在となります。
昇進を続け、やがて四納言と称されるまでに自らの力で出世したのです。

鳳凰ほうおう文様

「光る君へ」での源俊賢の衣装の文様は鳳凰もんようです。

鳳凰ほうおうとは

鳳凰文様
鳳凰は中国の伝説の霊鳥れいちょうです。
※ 尊く不思議な力を持つ鳥
冠はにわとりうろこは龍、羽は五色、声は楽器の音色のよう。
徳の高い君子がみかどになると、この世に姿を現すと言い伝えられてます。
「鳳凰」の「ほう」がおす、「おう」がめすを表わしています。
日本へは奈良時代に伝わりました。
正倉院宝物に数々の美しい鳳凰の文様が見られます。

鳳凰文様は帝など高貴な人が使うことのできる文様でした。

「光る君へ」での同じ文様

道長の姉であり、一条天皇の母“藤原詮子”が出家をし、女院となってから着ていた衣装が同じ文様でした。

藤原道雅みちまさ(藤原伊周これちか(中宮定子の兄)の長男)も同じ文様です
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